残欠の景色。

イメージ 1
 
 
 
残欠、コワレモノを愛でるというセンスは日本人だけでなく、諸外国にもあるのでしょうか。
”あまり例を見ない慣習である” と、知識人のように言い放ちたいところですが、表立って採り上げられるテーマでもなく、学術的な話は耳にしたことがありません。
 
残欠を ”愛でる” とまでいかなくとも ”許す、許せる” というのはどうでしょう。
 
そのような精神は、「そこに美を見るか」 となれば、またしても茶の湯の世界に端を求めることになりそうで、その線は今の私の気分とは少々反れるもので・・・
例えば日本人の原生活に根ざしたところで 「モノを大切にする」 とか、「コワレても工夫して使う」 とか。
そんな感覚はやはり持ち合わせていて、他国文化とは違うのだ! と思いたくなるキライはあるようです。
 
ところで。
この精神の行き着くところ、特に骨董趣味などありますと、その存在を許されたキズものたちが、結果的に身辺に溜まることになります。
”キズも景色になっている・・・”
”金継すれば、見れそうだ・・・”
などなどの理由に加え、キズものは総じて安価です。
 
目の前には江戸期頃の信楽大壺。
眺めて、つらつらと書き留めているのですが・・・
中世のものと異なり、特筆する景色も無い大きな壺ですが、その口辺は例によって欠けています。
そこで想像するのですが
「この欠けが無かったら、どうだろう・・・」
 
”大きさ” だけはある、この壺。
かなり暑苦しく、ウットオシい存在になりはしないだろうか?
欠けているから、許せる・・・ 見られる。
贅沢を言えば、もうちょっと V字形に深く欠けているのが、好みなんですが。(苦笑)