見る ということ

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近頃、野鳥を見てまわっている自分がいますが、折に触れて思うことがあります。

今までの決して短くもない人生、自分はいったい何を見ていたんだろう・・・

 

例えば オナガガモヒドリガモ・・・、 コガモでもよいのですが。

珍しい種ではないので ”居るところには居る” といってよい水鳥だと思いますが、私的には今まで彼らを 「見たことが無い」 のでした。

カモなんて、普通にみられるのは カルガモ くらいで、それ以外は野生の王国へ行かないと見られないもの・・・ くらいのイメージでした。

生まれの東京暮らしが長かったこともあるかもしれませんし、顔を上げて景色を眺める余裕も無かったのカモ。

 

でも、それも違うな・・ と思っています。

木々も花も昆虫も、もちろん鳥も大好きでしたが、見えてないんですね。

 

智恵子抄の一説に 「東京には空が無い」 と云うのがあります。

私はそれを読み、「空はあるけど、見てないだけだ・・・ 見える人には見えるし、見えない人には見えない」 などと思ったことがあります。

それを詩の解釈とするにはあまりにも稚拙なので、そこは敢えて申し添えておきますが、それこそ自らの事として「見ていても、見ていない」に気付かされました。

オナガガモも恐らくどこかで会っていたのでしょうけれど、それは私にとって 「カモ」 であっても 「オナガガモ」 では無かった。

 

ある日、近所の畑で水路に居るシラサギを見て義母が申しますには『 昔は サギ なんか一羽もいなかった 』 と。

今でこそ宅地化が進み、目に見えて減ってはおりますものの、まだ田畑も残っているくらいの場所、現在も頻繁に目に付くシラサギの事でしたので 「そんなハズは無い」 と笑いましたが、本人は譲りません。

私達が野鳥の話などするものだから、それに多少なりとも感化された義母の目に、サギたちは新しく名を受けて登場したのでしょう。

今までは見ていても、見ていない。

 

ひと度 「見える」 と、こんなにも違う景色が見えるものでしょうか。

一事が万事という故事もあり、野鳥ひとつ例に取ってもこの通り。

書き始めてしまったこの稿をどのように結ぶべきか、悩むところですが・・・ 

「 興味を持って見渡す世界では、それまでとは違う風景が広がる 」

その良し悪しなどではなく 「そんなもんだ」 という事で、どうでしょう。