南海の古陶・葉茶壷

f:id:amami_atq:20200414180508j:plain

特異な肩付の成形、実用性の良さを伺える四耳壺

 

カッコつけて ”稀に” と云いたいところですが、むしろ ”頻繁” に素性の計り知れないものに出会います。 私にとって、この葉茶壷もその一つ。 忘れた頃に引っ張り出してきては眺め改め、未だにその由来に想いを馳せます。

それが楽しくもあり 「素性なんか、分からなくても」 という趣向もあるのですが、それが売り物であるならば、かの出川直樹氏が著書の中に云う様に 「ヒトは何だかわからないものに、お金を出しません・・・」 と、その通りだと思います。 

それを踏まえましても、この壺は当分の間、素性など分からなくても好いのですが。 

 

当時、私は関東からこちら九州へ移り住んでまだ間もなく、何しろ九州は焼き物天国ですので、この新天地がそれは楽しくて仕方ありませんでした。 九州の焼物は、もちろん須恵器などは別と致しまして、多くは秀吉の朝鮮出兵後、朝鮮の陶工たちがその基礎をつくり上げたものですから、所謂 「桃山 ~ 江戸初期」 が 「古手のもの」 となりますが、とにかくショップや骨董市などを見てまわるのが楽しく、相対的に価格も割安に思えたものでした。 そんな中、昔から興味のあった 薩摩焼 がぐっと身近に感じられるようになりました。

薩摩の魅力につきましては、また日を改めて書いてみたいと思いますが、この壺は当時、探検に出向いた鹿児島で買い求めたもの。 薩摩焼を探しに行って、この南蛮四耳壷を持ち帰ってきました。

 

興味が行き届かなかったせいかもしれませんが、実は東京ではあまり 南蛮壷 を目にすることが無かった様に記憶しております。 それが九州に来て頻繁に見かけるものですから、さらに知りたくなる。 「南蛮」 の定義もなかなか一筋縄では行かぬようですが、軽く流せば 「南海貿易で入ってきたものの総称」 ということでしょうか。 だからこそ、この地に多く南蛮壷が残されていると考えた時、なるほどと腑に落ちました。

【 薩摩は南蛮につながっている 】

古来、日本へ他国の文化や器物が持ち込まれるルートは、大きく分けて2つ。 まずは遥かシルクロードを経て朝鮮から渡来するもの、いわば陸路の伝来。 もう一つがこの南蛮ルート、即ち海洋交易を介して流入するもので、その寄港地は遠くスペイン・ポルトガルにも通じる遥かな海の路ですが、盛んに交易のあった近隣で云えば、ルソンでありインドシナであり、そして支那、中国の南岸都市でした。 それら各地からもたらされるものが 「南蛮渡来品」 であり、焼物は何処の産と問わず 「南蛮」 となります。

 

薩摩・鹿児島は日本の最南端であると同時にその先、遥かな南海への出入り口であることを想いますと、鹿児島で南蛮壷を買い求めてきた事は必然であったと、大きな流れには逆らえぬ散財であったと・・・ 一人で納得するわけです。

 

f:id:amami_atq:20200414180854j:plain

四耳壺の口づくり